「わたし」の話

3年以上ここを開いていなかったらしい。InstagramもXもやっているので、正直発信する場所には困っていなかった。だけどこの話は少し長くなりそうなので、久しぶりにこの埃を被ったブログを更新することにした。

先に断っておくけれど、これはあくまで今日時点での私の考えであり、そして誰かに私に対する振る舞いを変えてほしいという意図もない。ただ、今の自分の感情を文章にして残しておきたいと、ふと思っただけ。内容に身構えずに日記くらいのつもりで読んでほしい。欲を言えば、こんな私のことを知っていてほしい。

 

さて本題。私のセクシャリティの話をしたい。

幼少期から、「異性を好きになる」という感覚がどうにも理解できなかった。幼稚園の頃からおませな女の子は簡単に結婚の約束をしたりなんかして微笑ましいものだけど、所謂初恋という人生の一大イベントは小学校に上がってもその先も、待てど暮らせど私には訪れなかった。ならば女性が恋愛対象かといえば、そんな感情も特に覚えがない。小学校高学年あたりから二次元オタクの道を突き進むようになり、周りの友達も同じ趣味なのもあってか恋愛の話をすることもほとんどなく、自分の恋愛感情の希薄さにさして違和感を覚えることもなく大学生になり、なんやかんやでぬるっと社会人になった。もっと言えばそれどころではなかった、という部分もある(前回記事参照)。

 

余談になるが、男性アイドルが好きだと言うと「じゃあかっこいい男の人にときめくんじゃん」と勘違いされることがある。違います。私はあくまでも「アイドル」という生き様を全うする姿が好きで、恋愛対象としてときめくことはない。推しが胸キュン台詞を囁やこうとも、黄色い歓声を上げるより強いて言えば「よっ!お見事!」という感情になる。初対面でこれ説明するのめんどくさいので、大抵は苦笑いで済ませるけど。

こんな話は別投稿でやれという声が聞こえてきそうなので話を戻す。

 

そういうわけであれよあれよと成人し、同世代で結婚、出産する人も珍しくなくなった。勤務先では、まるで親しくなるためのファーストステップみたいに恋愛話が始まる。ほぼ初対面の無邪気な女子大生からの「彼氏いないんですか?」「この中だったら誰がいいですか?」に「恋愛感情ないんで分からない」と答えて会話を強制終了するほど社会性を捨ててはいないけど、咄嗟に一人を選んでそれらしい理由を考えられるほど「恋愛する自分」を作り込めてはいなかった。結局返せるのは曖昧な返事だけで、親しくなるためのファーストステップは見事に踏み外すこととなる。

私のような人間がよく言われるのが「まだそういう相手に出会ってないだけ」という言葉だと思う。果たして本当にそう思うのだろうか?初心な中高生じゃない。もう26歳で多少なりとも社会経験がある。少女漫画や恋愛ドラマは共感できないのであまり見ないし、見たとしても自分を投影はせずいつも第三者目線でいる。これで「突然運命の相手に出会う」なんてそれこそ少女漫画みたいな展開のような気がする。

そして個人的に一番困るのが、一般的な異性愛者の感覚がよく分からないこと。恋愛感情が分からなくても友愛の気持ちはあるし、男女ともに魅力的に感じる人とは喋ったり親しくなりたいと思う。だけど特に男性に対して、そういう気持ちでアプローチした場合、周りや当事者からそれは恋愛感情に見えるのか。それが怖くて友達作りさえままならない。悲しいことに、ここへきて人見知りとクソデカ自意識が邪魔をするというわけだ。距離感のはかり方が分からない。多分、気にしすぎなのは分かっているけれど。

それに加え、自分のこういった特性をいちいち説明したり、それに気を遣わずにいてほしいと伝えるのが正直億劫になってしまっているのかもしれない。人間関係のあれこれをめんどくさがる悪癖をどうにかせねば、人生の幅は一生広げられそうにない。これは最大の反省。

長々と書いてきたが、つまりは現時点で私はこういう人間だと、せめてSNSで繋がっている人には知ってもらえていたらいいな。そんな気持ちで筆を執った。理解したり気遣ってほしいのではなく、接し方を変えろということもなく、こんな自分を伝えられていないことのもどかしさが解消されたらそれでいい。友達の恋愛話は聞きたいし、共感はできなくても自分の感覚で話したいし、自分と違う価値観を知るのはいつも楽しいから。

 

そしてもうひとつ。この年になって、自分のセクシャリティに概ね確信を持ち始めて、人生について考えるようになった。私はこのままだと一生結婚や出産をしないだろう。本気で一生添い遂げたいと思う人と一緒に暮らし、命よりも大切に思える存在と出会うこともなく、最期まで一人で生きていかなければならない……かもしれない。結婚が全てではないけれど、それでもそんなことを考えて無性に不安になることがある。いざというときに寄り掛かれる相手はいない。ならばもっと強くならねば。一人で生きる覚悟をしなければ。

金銭面や物理的なことよりも、強烈な孤独が怖いのだと思う。他人を愛せないという自覚が、何かが自分に欠落していると思わせてきて怖くなる。「家族」を求めているのに、自分にはそれを得る資格がない。夜になるとそんなことばかり考えるから、やっぱり夜に考え事はよくない。多分そのうち開き直るけど今はこんなものだ。こういう負の感情にも振り回されすぎずに、やっとほどよく仲良くできるようになってきた。

まだ怖いし自信も確信もないし、明日の自分もわからないから、文章にして残しておきたい。

 

ちなみに今更だけど、私のようなタイプのセクシャリティを「アロマンティック・アセクシュアル」と言うらしい。

“他者に恋愛感情を抱かない“(アロマンティック)

“性的に他者に惹かれない”(アセクシュアル

www3.nhk.or.jp

友人と喋っていて「多分これじゃない?」と何年か前から言われていた。

とはいえ、自分は絶対にこの分類に当てはまります!と言い切る気もない。あまり名前にこだわる必要もないと思う。一般的にこう呼ばれているなら説明が早いなと思うくらい。「そろそろ孫の顔を見たい」とか「彼氏欲しくないの」とか言われるのももう慣れたけど、こういう名前が広く知られるようになれば「恋愛感情なくて~」を冗談だと思われずに済むのかもしれない。

これだけ言って、数年後バリバリ恋愛してたら笑ってね。それすら完全には否定できないくらい常に自分に確信が持てない。無の証明ほど難しいものは無いから。

 

引用した記事にもあるように、多分性的指向ひとつとっても細かく言えば人の数だけある。現に私の周囲だけでもいろんなセクシャリティや生き方の人がいるし、性的指向だけじゃない。何が好きなのか、何が嫌なのか。私は人見知りのくせしておしゃべりで人が好きだから、出会えた人のそんな何気ないことを知ることができたら嬉しい。そして同じように自分のことも知ってもらえたら嬉しい。カミングアウトなんて大それたことではなくて、私のことを知ってほしかった。言葉にして文章にして、今の私を未来に向けて残したかった。

だからここまで読んでくれて、私という人間のひとかけらを知ってくれてありがとう。

 

さあ、明日の私はどんな私かな!

「普通」に憧れた私へ ―「かがみの孤城」を読んで―

 勧められてこの本を手にとった。久しぶりの読書。ハードカバーの、童話のように可愛らしく美しい装丁に心を踊らせて表紙を開く。しかし私はすぐに読むのを中断してしまった。これは今の私にとって劇薬だと思った。もがき苦しみながら最後まで読み終えた感想を少しだけここに残しておきたい。

 

 ちなみにこの感想文では小説の内容すべてについて深くは掘り下げず、主に自分の事を話しているので、ネタバレの心配はない。ここで触れなかった多くの登場人物や、最後まで隠されたもうひとつの物語を、まだ知らない人にはぜひ自分の手で知ってほしい。

 

 簡単に言えば、物語の設定は不登校の中学生7人が鏡の中にある城に集められて「願いがひとつだけ叶う鍵」を探すというものだ。それだけ聞けばファンタジーだが、主人公のこころをはじめ、7人の抱える問題はとても生々しく現実味を持って描かれている。

 私は高校の途中からスムーズに学校に行けなくなった。一言でいえばいわゆる「不登校」だった。その理由には身体的な疾患もあったが、結果的にはそのせいで「きちんと学校に行けていない状態」がさらに私の心を蝕んでいき、精神的にも学校へ行くことができなくなる悪循環が生まれたように思う。

 作中でこころがショッピングモールに行こうとするも、外に出ることへの恐怖から近所のコンビニで精一杯、という場面があった。その気持ちが私には痛いほどよく分かる。学生の自分にとって学校こそが世界そのもので、そこに属することのできない私は世界の住人として認められないような気がして。もし外で知り合いの大人や学校の友達と会ってしまったら。「また学校で会えるといいな」なんて言われようものなら。どう返事をすればいいのだろう。なぜ学校に行けないのか、うまく説明なんて出来ないのに。そんなふうに妄想ばかり膨らんで、外ではマスクを付けてうつむき、なるべく人のいない所を選んで歩いた。

 「普通」になりたい。そんな思いがこの物語にも描かれる。もしかしたら多くの人がその願いを持っているのではないだろうか。私は幼い頃から、そして不登校になってからさらに「普通」であることに強く憧れるようになった。説明は省くが少し特殊な家柄に生まれ、厳しい教育を受けながら、どうして自分だけこんな家に生まれたのかと環境を呪った。校門を前に足を止めてしまう自分が情けなくて、だけど家族にも話せずに、時には公衆トイレで時にはクローゼットで息を潜めて何時間も過ごした。皆を裏切っている自分は最低だと思って涙がとまらなかった。こころのように、誰か敵がいるわけではない。学校に行けば自分が求める「普通」がそこにあって、この足さえ動かせば手が届くのだ。それなのに、説明のつかない対人恐怖感に苛まれて体は動かず、ただただ時間が早く過ぎてくれと祈りながら暗い場所で隠れていた。

 「普通」って何なんだろう。いつからか求めていたものは、改めて考えるとすごく曖昧で空虚だ。きちんと社会活動に参加している身近な人のことを漠然と「普通」とカテゴライズしていたけれど、私の周りにはそうであっても家庭環境が複雑だったり自分の特性との向き合い方を模索していたり苦労を抱える人はたくさんいるし、それぞれが違う。毎日起こることすべてが良いことで幸せだ、なんて人は多分いない。私が渇望した「普通」はもしかしたら私が知らぬ間に作り上げた「理想」だったのかもしれない。

 自分の環境ばかり呪ってきたけれど、私はとても幸運なことに出会いに恵まれた。こころが喜多嶋先生に出会い、母親に気持ちを理解してもらえたように、私にも多くの学校や病院の先生が諦めずに寄り添い続けてくれた。家族にも支えられ、時間こそかかったが自分の本音を伝えることが出来た。逆に恵まれすぎているのではないかとも思う。こんなのは私にとって奇跡の連続のようなものだ。だけどある人が、出会いは自分で引き寄せるものだと教えてくれた。こころが喜多嶋先生に出会ったのも、アキを助けたからこその必然だった。ならば今この瞬間も、私が作り上げた今なんだと、胸を張っても良いのだろうか。

 

 最初に、この物語は今の私にとって劇薬だと書いた。私は徐々に学校にも通えるようになってきたけれど、まだ調子にもムラがあるし、当事者であった時期があまりにも最近であるがためにストーリーが胸に刺さりすぎる。自分が作り上げた小さな世界の中で必死にもがく少女たちが、自分に見えて苦しかった。だけど最後まで読んでよかったと思う。自分を投影しながらも物語を客観的に見ることで、たくさんの気づきと温もりを得ることが出来た。 

 「突然現れた転校生。自分は知らないのに、転校生はなぜが自分のことを知っている」

 そんな結末やっぱりファンタジーだな。一瞬そう思ったけど、いや、もしかすると。私達の生活は、記憶にないことも含めてたくさんの奇跡の連続で形作られているのかもしれない。だからもう少し毎日に潜む奇跡を信じてみたい。一生かけても見渡せないほど世界は広いし、敵もいるけど味方もたくさんいる。それに気づいたらどこへだって行ける。

 「普通」なんてどこにもなくて、きっと誰もが「特別」な人生を送っている。

読書感想文

 「読書感想文を書く意味」という話題が、少し前にSNS上で流れてきた。夏休みに大抵強制的に書かされる読書感想文。私は苦痛でこそなかったが、特に好きでもなかった。多くの人があの宿題を嫌っていたし、実際私も中学を卒業して課題に含まれなくなってから一度も書いていない。文章力や想像力を養うため? 読書習慣をつけるため? どれも間違ってはいない気がする。だけど私は、もうひとつ「読書感想文を書く意味」を見つけた。

 

 久しぶりに読書感想文を書いてみないか。そんな提案を受けて、最初は面食らった。しかし読書感想文を書かなくなってから本自体もほとんど読まなくなっていたことに気づいて、そろそろ本は読みたいかも、と思った。物は試し。書いてみようとは決めたものの、読書感想文ってどうやって書いてたっけ。久しぶりすぎて分からなくなった私は、実家に眠っていた中学3年間分の読書感想文を引っ張り出してみた。

 中学時代、読書感想文は多分必修課題だった。昔から読書好きだった私は多少の評価を受け、1年のときは県のコンクールまで進ませてもらった記憶がある。当時はそうして認められたことが嬉しかった。

 けれどその文章を数年ぶりに読み返して驚愕した。なんだこれは。文章力とかそういう話ではない。その文章の口ぶりは、達観した自分に酔ってただ強く主張を振りかざし、まるで自分の考えが正しいことを確信しきった自己満足の塊。なんだこれ。本当に気持ちが悪い。自分が書いた文章なのに、今読むと信じられないほど過去の自分に共感できない。

 そのとき初めて、人の思想は日々移り変わるものだと実感した。だから読書感想文を保管しておいて、読み返すことができて、良かったと思う。

 読書感想文を書くことは、ひとつの本の内容について自分の考えを書き残す行為である。変わり続ける自分を、客観的に振り返ることは想像以上に難しい。その方法の一つとして、本の内容というある意味ランダムなテーマに対する感想を書き残し、振り返っていくことは、自らの価値観やものの考え方を再認識するいい機会になるのではないだろうか。

 

 そんなわけで、8年ぶりに読書感想文と向き合ってみた。